戦後60年 慰霊碑巡礼第1部ダバオ・セブ編
第3回 ・ 栄える商魂、消える戦争
「ダ・ジャパニーズ・トンネル 1942」??そう呼ばれる新名所がミンダナオ島ダバオ市郊外にある。名の通り、太平洋戦争中に旧日本軍が掘ったといういわく付きで、市内の製薬会社オーナーが二〇〇一年十一月下旬にレストラン、ホテル付きの観光施設としてオープンさせた。入場料は大人十ペソ、子供五ペソだ。
丘の斜面を利用して掘られたトンネルは全長約二百五十メートル。入口には直立不動の旧日本軍将校、歩兵銃を持った日本兵と軽く会釈をする着物姿の女性という等身大の人形三体が置かれ、客を迎え入れる。
中に入ると、真っすぐ伸びた一本の坑道から短い坑道が枝分かれしながら、やがて展示スペースに着く構造。背をかがめながら薄暗い坑道を進むと、いかつい顔で銃を構える日本兵や血を流す日本兵の等身大人形、「奈良・東大寺の大仏のレプリカ」という小さな金色の仏像が闇の中から次々に現れた。
展示スぺースには、トンネル内から掘り出されたという軍票や拳銃などが展示されていた。オーナーの会社の社員、ダニエル・ピネダさん(45)は「子供たちに歴史を学んでもらおうと整備した。家族向けにホテルやレストランも併設した」と歴史的意義を強調した。
ところが、太平洋戦争やダバオでの日本軍政、戦闘などトンネルが掘られた時代の背景を説明するパネルは皆無。入口に掲げられた文句は「ダバオの歴史の不思議を探検しよう」という触れ込みで、「日本兵‖怖い」という言い伝えを色付けしたお化け屋敷型アトラクション・スポットになっているようだ。
トンネルから車で十分ほどのダバオ市トリル地区に住むメンジー・ラビロ君(15)は小学校の社会見学でトンネルを訪れた。「日本兵が隠れるために掘ったと先生から聞きました。中に入ったら、日本兵の人形があって怖かった」と笑う。
高校三年の彼は小さいころから自宅前の市営墓地を訪れる日本人の姿を見て育った。墓地内に、米軍の強制収容所などで亡くなった日本人約六百人の遺骨を納めた「ダリアオン収容所戦没者供養之塔」(沖縄県ダバオ会、一九七四年建立、八六年改修)があるからだ。
戦前・戦中にダバオ市で生まれた日本人らで構成される同会慰霊団が塔を訪れるのは八月。墓守のアルバイトで家計を助けるラビロ君の書き入れ時である。慰霊団の目の前で塔の周りを掃除して食べ物やお礼の金品をもらう。
慰霊団との「交流」のおかげで、ラピロ君の意見は親日的だった。「戦争前、日本人は比人と友人になるため比に来た。だけど、言葉や考え方が互いに分からなかったため、戦争になった。戦争が終わって日本人は優しくなった。いつか日本で働いてお金をため、大学に行って建築士になりたい」
反面、慰霊塔の由来や強制収容所の存在、慰霊団来訪の意味などは若い世代まで言い伝わっていない。ラビロ君にとって毎年八月は「優しい日本人からご褒美をもらえる月」でしかないのだ。(酒井善彦、つづく)
(2005.1.4)