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移民1世紀 第3部・新2世の闇と未来

第7回 ・ 抗日ゲリラの日本人孫

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8年前に失効した真理亜さんの日本旅券。日本人男性の戸籍謄本にはアニーさんに無断で届けられた離婚の記録があった

 アニーさん(35)=仮名、リサール州アンティポロ市=の半生は、良くも悪くも「日本」を軸に流転してきた。

 父は日本軍に殺されかけた元抗日ゲリラ。「逆さづりで川に頭を突っ込まれた」「自分で墓穴を掘らされた」・・。戦時中の話を聞いて育った。十七歳の時、その父が脳卒中で倒れた。手術代を稼ぐため歓楽街マニラ市エルミタに身を投じ、「怖い人たち」と思い続けてきた日本人相手に売春を始めた。三年後、東京都出身の日本人男性(47)と結婚、日本へ渡り一九九〇年五月に長女真理亜さんを荒川区内の病院で出産した。

 日本人相手の売春、日本人との結婚、日本渡航、日本人の子を産んだこと。父には決して本当のことを明かさなかった。九三年に真理亜さんをフィリピンへ連れて帰った時も「比人との子」とうそで通した。「日本人は今もおれの敵だ」。そう言い続けた父は、末娘と「敵」との深い関係を知ることなく九五年に息を引き取った。

 父の思いとは裏腹に、八九年から四年続けた日本での結婚生活は「掃除・洗濯をして、布団を干して、夕食を作って、夫の帰りを待つ。お金に困ることはないし、父には悪いことをしたけれど今までで一番幸せだった」と言う。

 しかし、夫との音信は九三年の一時帰国中に突然途絶する。荒川区にあった自宅の電話には誰も出ず、間もなく不通になった。夫の携帯電話も国際通話を受け付けなくなっていた。「なぜ離れていったのか。私にとっての幸せが夫には幸せではなかったのか」。答えは今も見つからない。

 三年前の二〇〇〇年、夫を捜すため日本人の知人に頼んで戸籍謄本と真理亜さんの住民票を取り寄せたことがあった。手元に届いた謄本にはこう書かれていた。

 「平成八(一九九六)年八月八日、比国籍の妻と協議離婚届出。真理亜の親権者を母と定める旨(むね)父母届出」。そして、除票扱いになった住民票には「平成八年八月八日、比共和国へ転出」

 九三年以降、日本へは一度も戻っていない。離婚届にサインしたこともない。「たぶん、夫が私のサインに似せて署名したのだと思います。ショックでした。その夜は酔いつぶれるまで飲み続けました」。

 数日後、住民票に付記されていた夫の転出先へ手紙を出した。

 「パパへ。元気ですか。私は真理亜と元気です。でもパパね。子供が日本へ帰りたいから。あなたに会いたいだって。私もそうけど。でもどうする。分からない。どうする。子供がいつも涙。あなたに会いたいだって。娘があなたにいつも考える。どうする。子供と私、日本へ帰りたい。どうする。何かをするわからない。苦しいわ本当に。部屋も何回も電話した。でも国際電話だめだって。パパ、どうする。真理亜は九歳だよ。もう大きくなった。どうするパパ。日本へ帰りたいよ。だからお願い。ママより」(原文ローマ字、一部略)。

 精いっぱいの思いを込めた手紙はしかし、開封されないまま「転居先不明で配達できません」というスタンプを押されて戻ってきた。

 出生から三歳まで日本で過ごした真理亜さんは今年十三歳になった。夢は二つある。一つは父との再会。二つ目は大学に進学して弁護士か医者、会計士になることだ。

 しかし、比国籍はまだない。比へ渡る時に使った日本の旅券は八年前の九五年十二月に既に失効。日本国籍のまま十年近く違法滞在(オーバーステイ)を続けていることになる。現状では「日系比人」として比社会の階段を上がっていくことすらできない。

 アニーさんは言う。「真理亜が高校に入学する時、提出書類の国籍欄には『フィリピーナ』ではなく『ジャピーナ』と書いて何とか入れてもらった。でも、大学では国籍はごまかせないと思う。今、日本へ帰してやれば、日本人として日本の大学へ入ることもできるのに」。母子の人生はこれからも日本を軸に流転を続ける。 (つづく)

(2003.9.14)

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