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戦後60年 慰霊碑巡礼第3部ルソン編

第7回 ・ 荒れ寺の問い掛け

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比島寺境内の慰霊碑群。戦死者名など碑文の消えた碑も少なくない

 フィリピン国内の対日感情が幾分和らいだ一九七〇年代、首都圏に隣接するルソン島ラグナ州に戦没者慰霊の場が「官」と「民」の手で相次いで建立された。五八年の日本政府遺骨収集団の初来比から十余年。収集作業が歳月の壁に突き当たる中、遺族の間では夫や兄の遺骨が眠る地で慰霊をとの思いが高まっていた。

 「官」の慰霊施設は、同州カビンティ町の「カリラヤ慰霊園」。

 日本遺族会の強い要望を受けて岸信介元首相が一九七二年一月、「比島戦没者の碑」の建立を提唱し、首都圏に近くもなく遠くもない同町が選ばれた。日本政府が建設費三千万円を支出し、比政府が用地(約三千六百平方メートル)を無償提供して七三年三月に完成した。さらに七六年一月には、碑の周辺約十二ヘクタールが日本庭園として整備され、比人に「ジャパニーズガーデン」として親しまれる現在の姿となった。

 戦後半世紀を経た九九年、比各地に点在する慰霊碑の近未来を暗示するような事件が、慰霊園で起きた。遺族会の立てた真新しい卒塔婆が引き抜かれ、バスケットボールのゴール板に姿を変えた。ゴール板が掲げられたのは、来訪者用休憩所の壁。「遺族の感情を害することにもなるので、元に戻すよう比側に要請したい」(厚生省社会援護局援護企画課=当時)と日本側関係者を慌てさせた。

 慰霊園を管理する国家電力公社によると、「容疑者」は同公社の派遣した清掃作業員という。動機は「日本人憎し」といった感情ではなく、「都合の良い板切れがあったから」程度であったに違いない。

 事件が象徴するように、比の若い世代にとって、卒塔婆は「板切れ」で、慰霊者の途絶えた慰霊碑は意味不明の文字を刻んだ「モニュメント」で、日本政府が年間二百万円の管理費を同公社に提供する慰霊園は観光名所「ジャパニーズガーデン」なのだろう。

 一方、「民」の手で建立された慰霊施設は、カリラヤ慰霊園から車で約二十分ほど離れた場所にある「慈眼寺比島寺」。境内は八百平方メートルほどで、観音像を安置した本堂を取り囲むようにして個人や部隊名を刻んだ慰霊碑が並ぶ。

 慰霊碑の総数は、個人名を刻んだ表札程度の大きさのものを含めると約千百五十。慰霊ビジネス最盛期の一九七七年、寺を建立した民間会社が「永代供養を」と遺族らに持ち掛け、千を超える個人・団体から資金を募ったことを物語る。六〇年代末から四半世紀にわたり遺骨収集・慰霊団受け入れに携わった島田栄さん(63)=パラニャーケ市=は「比島寺建立は(民間会社の)事業ではあったが、レイテ島など戦地へ行けない遺族にとってはかけがえのない慰霊の場だった」と振り返る。

 「慰霊の場」はしかし、九〇年代半ばから様相を一転させる。民間会社を経営していた日本人男性が死亡し、土地の賃貸料や管理費が地主らに支払われなくなった。戦後半世紀を境に慰霊団も激減し、雑草の生い茂る「荒れ寺」と化した。

 日本側遺族にとってかけがえのない場所も、地主マリフェル・パビロニアさん(45)にとっては「移すこともままならないやっかいな建物」だ。「寺のある場所には戦争中、日本兵や比人犠牲者の遺体が一緒に埋められたと聞いている。寺を撤去するつもりはないが、維持・管理することも経済的に難しい。日本人がたくさん来て、お金を落としてくれれば助かるのだが・・」とこぼす。

 慰霊ビジネスが後世に残したあだ花とも言える比島寺。比人に迷惑をかけながらこのまま朽ちさせるのか、それとも「ジャパニーズガーデン」のように、比人に親しまれる存在として花を盛るのか。比人戦争犠牲者百十万人の血が染みた地に、日本人戦没者慰霊碑を建ててきた日本人自身が答えるべき問いだろう。(酒井善彦、おわり)

(2005.12.13)

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